Tell me who is in?「私の中に誰がいる?」と言う公案

 
「私の中に誰がいる?」
そう問い掛けると千の答えが帰ってくる
 はたして 'それ' が私なのだろうか?
 
「私の中に誰がいる?」
そう問い掛けるとただ途方に暮れてしまう
 
それでもなお、問い続ける
 
エゴなど存在しないことを知った
それすら見つけることができなかった
 
 
「私の中に誰がいる?」
千とひとつの物事が私を捉えて離さない
 
「私は誰?」
そこには受け入れ難い自分がいた
 
「私の中に誰がいる?」
抵抗しても逃れることができないと悟る
 
そして、受け入れた
 
 
 
「私の中に誰がいる?」と言うひとつの問い掛けがまるで針の目を通っていくかのように集中され、その他のぼんやりしたすべての思考がやみ、私のすべてが「私は誰?」に向かう。静かに座ってその回答が浮かび上がってくるのを待つ。
 
気がつくと、そこには静寂しかなかった。ありとあらゆる不安が去り、何も変わる必要がないことを知る。私が一体、何を変えることができると言うのだろう? 変わらなければならないものは、落ちなければならないものは、’私の考え’ 以外の何ものでもないと知る。
 
私は受け入れた。受け入れることのパワーを知った。受け入れることこそが秘儀なり! 何も変える必要もなく、何も変わる必要もない。真実はどこか遠くにあるものではなく、’あるがまま’ が真実なり。

その他の公案

Tell me what love is. 「愛はと何か?」 Tell me what truth is. 「真実とは何か?」など自分自身に尋ねることができます。
 
とてもシンプルなお題ですが人として本質的な問いです。
 
そのことについて自分はどう捉えているのか? どんな想いがそこにあるのか? それを受け入れているか? 敵対しているか? 拒絶しているか? あなたの内面を探り、自分の真実を見つけていきます。
 
あなたが自分の真実に近づけば近づくほど 覚醒は起こります。この気づきの度合いを高めていくことで 幻や 事実でないもの、ごまかしや偽り などから 自由になることができます。あなたは目に見えない "鎖" から自由になり、自分らしく生きることができるようになります。
 
その他に、Tell me, If you are completely alone.「もし、あなたが完全に独りなら?」などと言った独特の公案を用います。

片手で打つ音はどんな音? Zen koan

OSHOの講義から
 
ある人がとても美しい質問をした。その問いは まさに禅-公案である。まず、禅の公案とは何かということを理解することが役立つだろう、そうして初めて、この問いを扱うことができる。
 
禅には特別な瞑想法がある。それは公案と呼ばれており、公案はパズルのようなものだ。しかし、それは解くことのできないパズルでもある。普通のパズルは解くことができるし、解けるようにできている。簡単ではないが、不可能ではない。公案は不可能だ、あなたはそれを解くことはできない、解く方法がないのだ。
 
例えば、この禅公案:片手で打つ音はどんな音? 両手を使えば音が出るが、片手だと、どんな音が出るか? 
 
これは公案である。解くことは不可能だ!  何を言っても間違いになる。完全なる沈黙に達しない限り、すべてが間違っていることになる。公案は、答えがやってこない 完全な沈黙を あなたの中に作りだす。答えがやってくるとしたら間違った答えがやってき続ける、それらすべての答えが間違いなのだ。片手から生まれる音はありえない。
 
しかし「音は出ない」と言ったら、あなたは見逃したことになる。なぜなら、明らかに、誰もが、音は出せないということを知っているからだ。
 
しかし、マスターは、"片手では音は出ない、ならば、その音は何になる?" と聞き返す。彼もまた、音が生まれないことを知っているのだから、彼に音は出せないと教えて、彼よりも賢くなろうとする必要はない。
 
あなたは見逃しのだ。公案に瞑想し、そして、片手で音が出せるとしたら、どんな音が出るのか見つけ出さなけならない。
 
あなたは考え続ける。あらゆる方法、あらゆる手段、あらゆる手法を使って考え続けなければならない。それを夢に見て、瞑想して、集中しなければならない。多くの答えがあなたの思考によって与えられる ― そして、答えるのは不可能だとあなたは既に知っている。
 
それでもあなたの思考は「これをやってごらん」、「試してみよう」と言い続ける。あなたは「答えるのは不可能だ」と言うかもしれないが、あなたの思考が答えを出し続けるので、その実感はあまり深くない。
 
私が話している最中にでも、あなたは片手で出す音はどんな音か見つけ出そうとしているだろう;つまり、あなたの思考はこの不可能なパズルに頭を悩ませている。あなたは考え、考え続ける…
 
マスターのところに答えを持っていくと、彼はあなたを殴るか、「この馬鹿者が、出ていけ!」と言って部屋から追い出すだろう。それがどんな答えであってもだ、マスターはあなたを殴る。
 
なぜなら、答えの無いところに達するか、または、完全なる沈黙に達するかでなければ、答えは不可能だ。
 
マスターには分かる、内側の答えがなくなっているか、思考が消え去っているか、あなたの顔をみればわかる。あなたが完全なる沈黙に達しているか、マスターには分かる。その時、彼はあなたに首を垂れるか、あなたの足に触れるかもしれない。
 
これらの公案は瞑想するためのものだ:思考を超越するため – 考えて、考え続け騒ぎ立てる思考を超越するためのあなたの助けになる。これらの公案は、あなたの考えを止めることができる、公案を解くことは不可能なので、それについて “考える” ことができない。最後に、あなたは考えるのを止めてしまうだろう。そこに至るまで時間がかかる、その間、あなたはエネルギーを消耗しているに過ぎない。年月が経過し、それでも、考えは止むことはない。
 
思考に終わりが来ると、ギャップ、インターバル(隙間)が生まれる。その隙間に、あなたは自分自身に気づく - 公案の答えでなく、しかし、公案という仕掛けゆえに、思考とが停止した。あなたは公案に飽き;もう考えることができない、あなたは単に考えることをやめてしまう。あなたは沈黙に留まる。パズルは、あなたを当惑させることをやめた。その沈黙の瞬間に、あなたは自分自身に気づく。
 
Now, this question is a koan. Someone has asked:
Osho, Does a dog have buddha nature?
 
さて、これは誰かが私に尋ねた公案だ。
「Osho、犬に仏性はありますか?」
 
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